昭和44年06月17日 朝の御理解
先日も御理解七節を頂きまして、先日は一番最後のおかげは信心はせんでもおかげはやってあると言う所に、焦点をおいて頂きました。今日は天地日月の心になること肝要なりと。特に肝要なりというところを頂きたいと思いますね。天地日月の心と、それはいろいろに説かれておりますが、まあ私共人間の心の上に、そうした天地日月の心を頂くという事は、どういうことだろうかと。
まあ例えば今日はこうやってお湿りがあっとりますように、私共の心の上にもやはり、お湿りがある事もあれば、お天気の日もある曇りの日もある。又は嵐と言った様な時もあるわけですね。そういう中にあって、お互い信心の稽古をさせて頂くんですけれども、如何に美しい心になる事、例えば肝要なりと言われてもです。なかなか汚い心が一遍に美しゅうなれませんね。
それが肝要だとは言われてもです、なかなかその美しくなれないね、けれども矢張りその美しくなる事に、精進する事は必要なんです。もうどうせ人間だからね。私はもうこんな人間だからというふうにですね、もう自分そこに留まってしまってはいけません。どこまでも矢張り、そこんところをおかげ頂いていかなきゃならんと。
日田の堀尾先生、偉い先生がおられましたね。この先生の教えておられる言葉の中に、「未完成のまま永遠に」という言葉があります。これはまあ言うならば、生神金光大神を目指すわけですけれども、とうていとてもそこまで私共、人間凡夫で到達することは出来ないのだと、教祖の神様ご一人が、お出来になられた方で、いうなら千年万年たっても、そういう方は、またと出られるはずがないんだと。天地の親神様が、こんな氏子は見たことがなかったと仰るほどしのですね。
私共がなれれるはずがないんだと。そらもうそうですは。なれはしませんものね。ですからけれどもその、矢張りそこまで通れたいわゆる未完成ではあろうけれどもです。だから現在のままでよい、いつまででも続いてよいというのじゃないと思うのですよね。未完成のままに永遠にと言う事は、その目指すところは、それは遠いい、遠いいところにありましても、やはりそこを目指して一歩づつでもですね。それは牛の歩みのようであっても、そこを目指して進んでいくと言う事だと。
言わばその完成は出来んでも、完成を目指して進んでいくと言う事だとこう思うのですね。ですからそれが肝要なんです。ひとっつもその信心をですね、進めていこうと心がけない人がある。何時までたっても同じことね。進めようとしない。はぁ今日の御理解は有難かったと、いわば分かったとこういうのでしょう。けども分かったからと言うて、それを改めて行こうとも、自分のものにしようともしない。ただ良かっただけである。だから自分というものが、何時もその見栄えがしない。
はぁ一年後にあったら、見違えるごとなってござったというものがないね。その所がですねいわゆる肝要だというのです。例えていうと、ほんなら今日お湿りがあっておる。そのお湿りをですね。自分にまあお湿りが都合のよい人があるかも知れません。昨日久富茂雄さんが言いよりなはった。今の百姓はお天気も欲しかりゃ、お湿りも欲しかちいうていいござる。そんな訳にはいきませんよね。どっちも一緒に下さいち言うわけにはいかんのですね。恐らく畑のものを今。
どんどん採りよりなさいますから、なら白菜の出荷時ですから、切ってどんどん出しよりなさる。もうはよ出さんと腐るるち。そのためにはどうでもこうでもお天気が良いというわけ、お天気でなからにゃならんというわけでしょうね。畑の方はそうだけれども、しかし田の方は、もう田植えの準備やら、なにやらかにやらでしょうか、そのお湿りが欲しいと言うておられるね。もうあれもこれもと言う事は、それはあまりもの信心ですからね。降れば降ったで照れば照ったでです。
それを有難く受けていくという、精進こそ肝要であると。自分に都合が悪けりゃなかなか有難いと思えんけれども、それをそのなかに有難い。私はもう毎朝私の控えに、三代金光様のお書き下げの、色紙がおいてあります。金光様にご挨拶を申し上げると、それが横にありますから必ずそれを見る。信心の稽古と書いてあるね。ですからもう私共今日一日が、どのような事があっても、どのような具合であっても、その事を持って信心の稽古をさせて貰うのだ、という心が肝要だという事になるね。
天地日月の心になること肝要なりです。だから大変難しいけれども、今日私が申しますことなら、そうでもないでしょうね。他の稽古じゃない信心の稽古ですね。皆さんもどうぞ一つ見やすいところに、一つ信心の稽古を書いときなさるといいですよ。それでどのような中にあってもその事の中からです、信心の稽古をさせて頂こうという、そういう心こそが肝要なりでありますね。私共の心の上にもね。はぁこげな事で腹かいちゃならんと、思うてもです。それこそ心の中に嵐が吹くようにですね。
心の中をかき乱すような事がございます。訳もないのに淋しゅうなる事もあります。いわゆる曇ってくるのですね。かというと又それとは反対に有頂天になるような調子がかるなるように、心が浮き浮きとして来る事もありますね。心の中には矢張り晴れたり照ったり曇ったりね。吹いたり降ったりであります。昨日も高橋さんがあるお届けをされるのに、もう十年もですか、信心の稽古をさせて頂いておりますが、教えを行ずると言う事の難しさが、いよいよ分かりますと言うて、言うておられますね。
いよいよ難しい事が分かると言う事が、精進なんです。一つもそれに取り組んでないと、難しさもない。だから、たまには失敗もあるわけです。ね。取り組んでおらなければ、難しさも何もない。どんなに素晴らしい例えば勉強の、そこに材料のあってもです、それに取り組もうとしなかったらね。取り組むから難しさが分る。それがいわば肝要だというのです。そういう私は稽古を続けさせて頂いて、信心の稽古を続けさせて頂いておると、どう言う事になってくるか。
真の道を行く人は、肉眼を置いて心眼を開けよとこう仰る。真の道を行く人は肉眼を置いて心眼を開けよとね、いわゆる真の道に精進させてもらい、真の教えを頂かせて貰うてね。どのようななかにあっても、いわゆるその事をによって信心の稽古をさせて頂こうと言う頂き方。そういう姿勢で全ての事に当たらせて貰うと言う事が肝要である。それが天地日月の心になることのための、精進をしておるわけですからそれが肝要だと。今天地日月の心になることが肝要だといわれて、一遍になれるはずはなか。
今美しい心になることが、信心なもう美しゅうならにゃいかん。いま美しゅうなれといったってその後ろから、もう汚い心が出てくるんですからね。肝要だといわれても、なかなか出来ん。ただけれどもこれはほんなら人間だから、当たり前だというたら、もうそれまでなんです。だからそれに取り組んで、信心のいわば稽古をさせて頂こうと。雨なら雨嵐なら嵐。そしてその雨のなかにも有難い。嵐の中にもまた有難いと言う様にです。分からせて頂く信心が段々出来ていきよるとですね。
どういう結果が生まれてくるかというと、それは真の道を行く人は、肉眼を置いて心眼を開けよと仰る、いわゆる心の目が開けてくるのですね。私は本当にこの心眼を開くという、ほんとにあの心の目を開くと言う事ね。ほんなら真の道を行く人は、肉眼を置いて心眼を開けよと。その事が肝要だと言われたってですね。十年、二十年、いや五十年信心したからといって、心眼が開けるもんじゃないですね。
けれども今日は私し、天地日月の心になること肝要なりと言うておられるその、そこんところが肝要だとね。それに向かって精進させて貰う。その事を持って信心の稽古をさせて頂くという、私は、修行ですかね信心修行させて頂いて、初めて、肉眼をおいて心眼を開く事が出来る。長い間そういう例えば、稽古をすると言う事が肝要だといわれて、それに取り組ませてもらうと言う事がです。
まあ生易しいことではない。それに取り組むことは難しいことであると同時に、また楽しいことでもあるわけですけれども、それがほんとにですね。例えばあのそういう精進させて頂いていっておる人達が、その肉眼をおいて心願を開いていくような人達が、つぎつぎと出来てくる、そのがなからなければね。稽古するのにもやっぱり何かこう、あてがないようですね。
昨夜、原さんところの、( ? )さんところの謝恩祭がございましたからね。まあそんな謝恩祭のなか、終わってからの、ご理解に天地の親神様の働きの一分一厘間違いのない働きというものをね。合楽ほど合楽ほどというといけんけど、まあそげん言ったほうが話し良いから、まそう言う様な合楽ほど現しているところはなかろうと。漠然としたおかげは頂きとる教会とはもう、全部がそうである。やっぱりおかげ頂いとるから、そこには矢張り教会が立っていっとるのであり、信者がおるのです。
けども合楽の場合はね、一分一厘の間違いのない働きを、見たり聞いたりすることが出来るんだ。というお話でしたね。例えば宅祭りなんかに、みんなおかげを頂かれるですが、度々のことですからね。やはり神様の働きは、もうほんとに一分一厘間違いないなという事を実感されるだろうと思うんですね。様々な働きの中にね。いま上野愛子さんが帰ってきとります。お母さんが亡くなられましたから。
でまあ四、五日おるらしいですけども、昨日こちらへ午前中御用頂いて、お食事させて頂きながら話しておる事にです。学院でいろいろ習わせて頂くのにお取次ぎを願う。いわゆる、自分の親先生がおがめるかと言う事だと。それが非常に問題になるそうですね。拝めるという人もありゃあ、拝めんという人もある。どげん考えてもおがめないという人もあるね。久留米地区から行っておられる人が、その質問を受けたときに、私はもう絶対おがめませんと。
拝めんだったらおかげ頂かんよといったら、いいんや私はおかげ頂いとりますち言う。合楽のことなんですね。学院に行く前にもうそれこそ、難病も難病の病気を持っておったのがお参りをして、それが嬉しゅうてたまらん。泊めてもらう。もう晩な眠れんごと有難い。それがその今まで永年の難病がなく、治ってしもうたのですからね。だから親先生拝めんでも、おかげは頂かれるとこういうわけなんですね。それで上野さんあなたはどうかというふうに声掛けられた時に、私はもう親先生は拝めますと。
いやそりばってんその初代は拝めるけども、二代になると拝めんもんねちゅうてこう言われる。んにゃ私は若先生もやっぱ拝めますと。そら親先生のごと拝めんばってん拝めるち言うてから言った。もうあぁたそげん本当ならば、もう言う事はなかとこうね。果たしてほんなら上野さんが、親先生が拝めておるだろうか。若先生が拝めておるだろうか。私は親先生そのものを拝んでおるのではなくて、親先生の上に現れてくるです。一分一厘の間違いのない働きを間の辺りに見せて貰うから、それを拝めておるんだとね。
それこそ間髪をいれず、一分一厘のそれこそ、隙も間もないほどにおかげを見せて下さる。聞かせて下さる。ですから親先生を拝むのではなくて、親先生の上に現れなさる、間違いのない神様を拝んでおるのだと、私は思うのですね。だからそういう働きを現しておるのが、ほんなら今沢山そういう教会があるだろうかとね。だから皆今こそそういう間違いのない、一分一厘の間違いのない神様を現せれるような信心を、お互いも頂かにゃいけんというような、まあ御理解を頂いたんですけれどもね。
まさしく私はそうだと合楽では、そういうおかげをお互いが、お互いでない、私の上に現れておられる神様が見せて下さるからね。だから今日例えば言う、天地日月の心になること肝要なりと言われりゃ、肝要だと分からせて貰うてです。それに向かって精進していかなければならん。いや精進していく楽しみがあると言う事ですね。だからその事をね、その事に取り組んで信心してない。
取り組んでいないんです。一つも変わっていかない。一分づつでも一厘づつでも、自分自身がそういうおかげの頂けれる信心に近付かせて頂く。私はある意味合いでですね、雲を掴むようなね。本当におかげが頂けるか頂けんか分からん、けれども教えにはこう言うてあるから、その教えを行ずると言う様な事は、実に漠然とした事だとこう思うですね。けども、合楽の場合はそこにはっきりと、そこに一つの目印と言うものがあるね。本当に一分一厘の間違いのない神様を、現せて見せて下さるね。
ですから精進するのにも精進がし良い。いわば楽しいね。だからどうでもそれに精進しなければいけないね。天地日月の心になること肝要なりとね。一遍にいくら天地日月の心になること肝要だといわれてもです。なかなかなれませんけれどもですね。それはなぜかというと、私共の心の中にも、降ることも、照ることも、または、吹くことも降る事もありますからね。けれどもそういう降ることの中にも、照ることの中にもですね。その事を持って、信心の稽古をさせて頂くと言う事になればです。
降ることもまた照ることも有難いと言う様なことやら、段々出て来るようになる。そういう信心のいわば姿勢というか、稽古こそが肝要であってね。そういう信心を続けさせて頂くところからね。それに段々稽古が積んでくるというか、おかげが頂けてくる。それはいわゆる、真の道を行く人は肉眼を置いて心眼を開けよと仰る、その心願が開けてくるね。心願が開けてくるところにです。雨が降るから風が吹くからと、例えば言う場合であってもですね。どうして雨が降るのかと言う事が分かる。
どうして病気をするのかという、その訳が分かる。どうしてこのような難儀な問題がという。その難儀な問題のもう一つ向こうが分かる。分かるからね。ただ肉眼で見たとき、難儀だと思うておったけれども、心眼を開かせて頂いたら、それは神愛の現われであったと分かるから、その事が有難いね。そこに初めて天地日月の心というものが、そこに出来てきたわけなんですね。ですから肉眼をおいて心願を開かせてもらうと言う事がですね。いよいよ精進信心の、精進の目指してあるわけです。
それとてもまた限りがない事でございますけれどもね。どうでもお互い肉眼を置いて心眼を開かせてもらえるところまで、おかげを頂いてまいりますとですね。全てが有難い。全てが神様のお懐の中で、しかも氏子可愛いと言う願いの中に私共があると言う事が分かりますから、安心でもありまた、喜びでもあるというおかげが受けられます。私共がね今日はこの、日月の心になること肝要なりと仰る。この肝要なりと信心させて頂くものは、これだけは肝要だというところをです。
私共がおろそかにしておるように思うのですね。そこんところを、私は今日はとりわけ特にですね頂きたい。果たして信心の稽古と言う事が頭の中にあるかと。今日もどのようなことが起こりましてもありましても、どのような場合にも直面しましてもですね。どうぞその事を通して信心の稽古させて下さいと言う事にならなければ。まあ私共の信心がまあ私の信心がですね。そこんそこんにきだと思うですね。やはり難儀と感じよる。けれどもその難儀をですその事を通してね。
その事を持って信心の稽古をさせて頂こうという、そういういわば態勢ではあると言う事です。昨夜私は十二時ごろでしたかですね。三回起されました。火事だっちそれが三回あったんです。だからもうほとんど休まなかった。言われるたんびにお広前を一周してくる。なんか心なしかどっか、竈(かまど)のにきが、バチバチ言うたり、ぼうち言う音のしたりしたような感じがするんです。ほれでもうあんまり何べんでんやけんでもう、それけどもまた頂くのです。三回頂いたね。
それこそ、神様しらごつばっかり言いなさるち言うごたるふうな。まあどう言う訳かまあ、修行させてござるとじゃろと。寝せまいと思うてから、修行させてあるとじゃろというふうに思わせて頂いてですけども、今朝の御祈念をさせて頂きながらですたい。はぁ神様がですね、もう焼けたっちゃ良かという心を作らせて下さったんだと。幾ら焼けても私の信心だけは焼けません。
という心を作らせて下さったんだなあと私は思うたんですね。火にも焼けなければ水にも流されない信心ね。その事を持って又一段と信心の稽古をさせて頂こうというのですからね。どうぞ焼けませんように。どうぞ流れませんようにと言う様な願いをする様にですね。流れんで済む信心。焼けんで済む信心なんですね。どうぞ雨が降りません様に、お天気になりますように。いや雨が降りますようにとか言う願いではなくてです。
降っても照っても、その中からですね。動かん有難いという、お礼の言えれる信心を頂くと言う事が有難い。為には、私どもがですね、どうして降るじゃろかと思わんですむためには、やはり、肉眼を置いて心眼を開かせてもらわなければなりません。それにはどうでも私共が、天地日月の心になること肝要だと仰る。その肝要だというところをですね。いつも心に掛けとかなきゃならん、という様な事を聞いて頂いたんですよね。
どうぞ。